私の半生・想い

『私』について

現在、私は『堺肩こり・腰痛センター』という整体院を運営しています。腰痛・股関節痛専門の完全自費院です。完全自費院にしてから、7年と少しになります。その前は、2008年から『ヒロ理学整骨院』という整骨院を運営していました。こちらは、完全保険院で開始し、2015年より保険と自費を併用する形での運営でした。

さらにその前は、理学療法士(リハビリの専門家)として、急性期病院で約5年間、慢性期病院やデイケアで約5年間勤務していました。その前は・・・。話が少し込み入ってきましたね。分かりにくいので、幼少期から振り返ってみたいと思います。

幼少期の記憶

ヤマハ音楽教室発表会

私は大阪府の豊中市の病院で生を受け、3歳のときに兵庫県宝塚市に引っ越します。豊中にいたころの記憶はほとんどありませんが、残っている写真や両親からの話では、おじさん(父親のすぐ下の弟)に連れられて大阪万博に行ったそうです。

なんと、そこでそのおじさんの愛のキューピットになったそうです(笑)そのおじさんは、当時独身で、2歳の私のことを甲斐甲斐しく世話してくれたのが、今の奥さんだそうです。会うたびにそのことを言われたものです(笑)

宝塚に行ってからの記憶はあります。今思えば、当時が一番楽しかったですね。何も考えなくてすみますもん(笑)その時に、親から半ば強制的に読まされたのがポプラ社の世界偉人伝シリーズでした。

その中でも特に感動したのが、「野口英世」と「北里柴三郎」で、子供ながらに将来医師になりたいと思うようになりました。無償の愛と言いますか、損得勘定抜きに、ただひたすら人助けをしたいという情熱に感動したのだと思います。

今にして思えば、私の全ての価値観・行動規範の根本はここにありますね。結局、『三つ子の魂百まで』と言われるとおりで、この時期に何をインプットするかで人生のレールが敷かれてしまいます。私の場合、「野口英世」と「北里柴三郎」だったわけです。

タラレバはないですが、もしスポーツに感銘を受けていれば…。私はこう見えて運動神経もよかったですので、大谷になれたかもしれませんよ(笑)

  • 宝塚市立長尾小学校 1年生クラス集合写真
  • 野口英世
  • 北里柴三郎 

小学生になり大阪府堺市へ

少年野球ジュニア・ウィングス 和歌山合宿

その後、小学2年生の時に、父の都合で大阪府堺市に引っ越しました。当時のカルチャーショックは大変なもので、特に泉州弁のインパクトにやられてしまいました(笑)宝塚はお上品で「~さん、~くん」と呼び合っていたのが、いきなり「おい、柏原」ですからね(笑)帰ることをいぬと言いますし。チンプンカンプンでした。

小学校も高学年になっても医師になる夢は変わらず、中学受験を考え、進学塾に通うようになります。ところが、6年生になり、突然野球を本格的にやりたくなり、地域の少年野球チームに入団したことにより、中学受験を断念することになります。

私は幼少期から野球が大好きで、しょっちゅう父親とキャッチボールをしていて、全てのポジションを守れました。特にピッチャーが得意でしたね。この時、監督(浪商野球部出身)から真剣に目指せば甲子園に行けるなんて言われていました。

 

読書中毒

小学生時代は、親戚から入学祝いで買ってもらったポプラ社の偉人伝シリーズの全巻読破を皮切りに、とにかく読書をしていましたね。小学校の図書館では、『怪盗ルパン シリーズ』『名探偵シャーロックホームズ シリーズ』『江戸川乱歩 シリーズ』など手当たり次第に読破していきました。1回に6冊くらい借りるものだから、冊数制限を食らっていましたね(笑) 深井小学校の図書カードに私の名前が記載されているはずですが、さすがにもう処分されているか(笑)

そのお陰?か、堺市の読書感想文コンクールで小3・小4と連続で入選したりもしました。本当に懐かしいです。

 

  • ポプラ社 怪盗ルパン
  • ポプラ社 名探偵ホームズ
  • ポプラ社 江戸川乱歩

学校の図書館だけでは飽き足らず、夏休みには津久野の天牛堺書店に午前中から入り浸り、漫画・小説・伝記・ミステリー文庫等、片っ端から立ち読みで読破していきました。酷い時なんて夕方までいましたので、6~7時間立ち読みしてたなんてことはざらにありました(笑)担任の先生には信じてもらえませんでしたが、ドラえもんだけでも数十巻ありましたからね(笑) それに、クーラーがあって居心地が良かったですしね。立ち読み無制限だし、今みたいにカバーもされてませんでしたしね(笑)

小6には、「星新一」「眉村卓」「小松左京」「半村良」「筒井康隆」なども読み漁っていました。

でも、この天牛堺書店 津久野店も既に無くなっちゃったんですよね?

私ですらAmazonでしか書籍を購入しなくなって久しいから、危惧してましたが、現実に無くなるととんでもなく寂しいですね。

私の心のオアシスでしたからね…。

 

ラジオ小僧

小学生の時にもう一つ熱中していたのは、ラジオを聴くことです。勉強しながら聴いていましたね。ほぼ身が入っていませんでしたが(笑) 親の目を盗めましたからね(笑)

ヤンタンが流行っていて、私は当時木曜日の笑福亭鶴光と金曜日の谷村新司を聴いていました。どちらもエロネタですね(笑) そう言えば、先日谷村新司さん(チンペイさん)がお亡くなりになり、ショックでしたね。もうそんな年代なのかと…。隔世の感がありますよね。

 

高校生になると、もう一度ヤンタンがマイムーブになりますが、それは一先ず置いといて、この時期外せないのが、OBC『サタデーバチョン』です。浜村淳さんがパーソナリティで、土曜日のPM11:00~AM1:00で、冒頭は新作映画の紹介から始まります。とにかく楽しみで、それが高じて、はがき職人になっていました。何回も読まれたことがあり、「バチョンバッグ」「がんこ寿司の1万円食事券」などをいただきました。

中学生になり進学塾へ

堺市立綾南中学校 修学旅行(広島平和公園)

中学生になり、やはり医師になる夢を捨て切れず、再び進学塾に通うようになります。

高校受験は府立三国ヶ丘高校と私立清風南海高校を併願。私立受験で清風南海高校は受かったのですが、公立受験で三国ヶ丘高校には不合格(陵南中学から5人が併願して、私以外は全員合格)。

普通に受ければよかったのに、学研塾のライバルたちに勝って(塾全体での成績優秀者の発表が常にあり、三国ヶ丘高校受験者はお互いの席次は把握しており切磋琢磨していた)上位で受かってやろうという功名心があったため、予定外に数学の最終問題がどうしても解けないのに、最後まで満点に拘ったため、見直しが全くできず。さらに最悪なのは、最終問題さえ解ければ楽勝と考えていたため、最終問題から解いてしまったのです。そら焦りながら他の問題を解いているからミスはおこりやすいわな…。完全な戦略ミスと言うか、自爆ですね。いったい何を考えていたんでしょうね?

やってはいけない友人との答え合わせで、その前の問題の答えも違うことが発覚。そこからは頭が真っ白になり、次の理科ではパニックで何も考えられなくなり、手が震えていたのだけは覚えています。その次の社会で冷静さを取り戻し英語も順調でしたが、時すでに遅しで、数学と理科の2教科でのしくじりは致命的でした。

今冷静に考えると、受験ではやってはいけないことのオンパレードでしたね。落ちるべくして落ちた感じです。舐めてたのかな…?

覚悟はしていたが、それでもつらかったなぁ…

三国ヶ丘高校の合格発表日は忘れもしません。人生初の大挫折でした。体中の血液が地の底深く引いていく感じで、目の前が真っ暗になり、合格者の歓声だけが聞こえてる状態。こんな感覚は後にも先にもこの時だけで、経験した人間にしか理解できないと思います。母親は泣いているし、不合格で落ち込んでるのも束の間で、残酷にも清風南海高校の入学の手続きに行かなくてはなりませんでした。ため息ばかりついていると、知った顔が2つありました。一人はI君、もう一人はE君でした。彼らも三国ヶ丘高校に落ちていました。

E君はずっと泣いていました。体育館で授業で使う剣道の防具を、泣きながら購入していたE君の表情は未だに忘れられません。彼らは、小4~5に通っていた中学受験専門塾である「東京標準テスト」の仲のいい友達でした。久しぶりの再会がこんな形とは…。でも、彼らは奮起して、E君は現役で防衛医大に、I君は1浪して大阪大学工学部に合格しました。E君は埼玉で眼科専門の大病院で理事長を、I君は大阪ガスで管理職になっています。

 

このときに、こんなに重大と感じたことが、今や清風南海高校は男女共学で三国ヶ丘高校より偏差値は上になっていますし、

このときの彼らに、実はあまり意味がなかったと言ってあげたいですね。

「つまらんことでクヨクヨするな」とね。

 

  • 清風南海高校 修学旅行(北海道)123便機内(1年後御巣鷹山にて墜落)
  • 清風南海高校 修学旅行(北海道)登別
  • 清風南海高校 修学旅行(北海道)バス内

暗黒の浪人時代

親からの大学進学の条件は、「私立はダメ、下宿はダメ」ということでした。近畿の国公立大学医学部受験を3浪まで頑張りましたが、結局断念せざるを得ないことになります。

1浪:河合塾 医進クラス 高校の同級生であり友人のN君と共に学ぶ 和歌山県立医大✕ N君は大阪市立大学医学部〇

2浪:大阪予備校 阪大クラス 特待生(授業料免除) 大阪市立大学医学部✕ 和歌山県立医大✕

3浪:駿台予備校 京大クラス センター試験で大失敗(燃え尽き症候群) 愛媛大学医学部✕ 大阪府立大農学部〇

そして大学を退学

仮面浪人:大阪府大に進学するも、医学部にしか興味が持てず再受験 高知医大✕

この結果には未だモヤモヤした感情が残っている。自己採点ではセンター(665/800でボーダーが650)・2次(英語120/200・数学200/200で8割強)ともに合格最低点は超えていたはず…。

おまけに募集要項には無かった2次面接まで課せられた(2日目の面接試験終了後、急に20~30人ほど館内放送で呼び出された)。1次面接では5人ずつ2人の面接官に質問される形式だったが、2次面接は1人ずつ会議室に通され、学長を正面に15人くらいの教授陣に扇状に囲まれる形式でいろいろ質問攻め。特に私の場合は、大阪府大に在籍したままの受験だったので、「そのままでいいのでは?無理に本学に入る必要は?」とか底意地の悪い質問までされた。

これって文科省の受験制度からは逸脱した行為だと思われる。大学によっては、多浪生や再受験生はほぼ弾かれるところがあるという噂がある。事実なら憲法違反である。

合格する可能性もない受験生の面接を、わざわざ学長以下教授陣が総出でしますかね?プライド高き彼らが無駄な労力使います?しかも抜き打ちで。品定めをされてる感が非常に強かった。

その年の高知医大の受験者数は軽く1000人を超えていた。定員は100人だから、競争率10倍を超えていた。

事実、私は受かったと思って、わざわざ合否の電報までお願いしてきた。

合格「カツラハマ ニ マンゲツ」  不合格「リョウマ ノ メニ ナミダ」

当然合格と思っていましたよ。でも、結果は「リョウマ ノ メニ ナミダ」

とても信じられなかった。

何かがプチンと切れる音がしました。

そして、何もかもが厭になり、大阪府大を退学することになります。

 

※2022年、東京医科大学で女子差別があり、裁判で賠償命令が下っている。

「東京医大 なぜ入試で『女性差別』」(時論公論)

 

今だから言えること

今ではある事情から(言い訳としか取られないであろうから伏せます)、むしろ医学部に進学しなくてよかったと思えるので、以前なら到底触れる気にすらならなかった恥部を晒しました。

でも、当時は本当に地獄でした。自他ともに当然医学部に行くであろうと思っていた人生のレールから脱線してしまったのだから…。

いまだに旧友に会うと、「まさか柏原がこうなるとは思わなかった。何でやろな?俺より成績よかったのに…。」と言われます。

少し胸がチクッとしますが、「まー、それもまた人生」と今では笑って流せます(笑)

 

こうやって、過去の受験について向き合ってみますと、本当に一発勝負に弱いことが分かります。

平常心でいられないと言うか、舞い上がってしまうと言うか…。

高校の担任にも、本番に弱過ぎると小言を頂戴しましたしね…。

理学療法士の存在

そんなある時、知り合いの病院の事務長さんから、「理学療法士」の存在を教えていただき、リハビリ・医療ということで、やってみたいと思うようになりました。

幸運にもその年の受験で、大阪府立看護大学医療技術短期大学部理学療法学科(現在の大阪公立大学医学部リハビリテーション学科)に合格することができました。

その後も、いろんな苦労をすることになります。どこか医師になれなかったという負い目を、ずっと引きずっていたのでしょうね…。まー、教員からすると扱いづらかったのでしょうね(笑)

理学療法士の国家試験に合格し病院へ

岸和田徳洲会病院

そんなこんなで何とか理学療法士の国家試験に合格しました。やっと人生のスタート地点に立てた心境でした。ここからは、病院で本当に人生に関わる障害に向き合わなければならない患者さんに寄り添っていくことになります。

「人生とは何か」「生きるとはどうあるべきか」を真剣に考えさせられる毎日でした。自分は何も悪くないのに、ある日突然、当たり前にできていたことが、全くできなくなる現実を突きつけられる患者さんに、接し続けていきました。

「どんな顔で接すればいいのか」「どんな言葉をかけるべきか」ほとんどの方は、なかなか自分の身に起こった現実を受け入れられるものではありません。でも、リハビリは日々淡々とこなしていかなければなりません。

普通にできることの有難さ

医誠会病院

ICUからスタートした患者さんに至っては、そもそも意識がありませんので、日々死の危険性と向き合わなければなりません。そんな中、呼吸リハとか、関節可動域訓練とかをやるのですが、非常に荘厳な感じと緊張感に包まれていました。(非常に静かで、人工呼吸器などの機材の音だけが聞こえている)

そういう方々が、日々よくなられ、一般病棟に移られてからが、リハビリの本番です。意識レベルが上がり、安定してから、できることが一つずつ増えると、患者さんの笑顔が増えていきます。健常人からすると、ほんの些細な進歩でも、大きな喜びなのです。普通にできることの有難さを、本当に教えていただきました。

  • ICU
  • 病棟リハビリ
  • リハビリ室

AKA-博田法という特殊な手技

心臓血管外科手術室

それとは別に、私が勤務した病院では、午前中は外来の整形外科領域のリハビリを担当していました。そこでは、AKA-博田法という特殊な手技が使えなければならず、インストラクターからマンツーマンで教えていただきました。もともと除痛ということに興味があり、その治療効果の高さにどんどん魅入られていきました。

そんなある日、一時期訪問リハをすることがあり、その中に心臓オペ後ベッド上で身動き一つとれない患者さんと出会うことになります。術後2~3ヶ月だったと思います。この方を、リハ開始1回目で普通に歩けるようにしてしまったのです。

偶然ではありませんよ(笑)私の予測通り、仙腸関節の固着がありましたから。それを調整時、バキッという大きな音が鳴り、その直後に歩けるようになったのですから。

それまでは検診に車椅子で来られていたのが、ある日突然、普通に歩いて来られれば、担当の先生はさぞ驚かれたでしょうね(笑)その先生は、日本で5本の指入る心臓外科医で、当時副院長でしたが、その先生から2年目の理学療法士だった私が挨拶されたのには感動しました。

  • AKA-博田法
  • 歩行器による歩行訓練

これ1本でやっていけないかを模索

このことがきっかけで、ますます除痛ということに生きがいを感じ、これ1本でやっていけないか模索するようになります。でも、当時自費診療でやっていけるなんて夢にも思わず、どうしようか悩み続けていました。

そんなある日、病院のリハビリ科で柔道整復師や鍼灸師の方々と共に働く機会があり、いろいろ話を聞いていると、整骨院を開業すると保険診療ができるということが分かりました。何より、すごい人数の方が押し掛け、大繁盛しているというのが魅力的でした。

そして専門学校へ

国際東洋医療柔整学院

「これだ!」と思い立ち、柔道整復師になるには、専門学校に通う必要があるということが分かり、働きながら通院できる学校を探しました。時期が2月頃だったので、受けられるところは限られていましたが、無事合格することができました。

それからは、午前9時から午後4時まではデイケアのリハビリに従事し、午後6時からは夜間の柔整学校に通う毎日となりました。デイケアの担当する人数が30~35人と多く、学校ではクタクタだった記憶しかありません。ほとんど眠っていたような(笑)

  • 国際東洋医療柔整学院 教室内
  • 包帯実習
  • 体育祭
  • 体育祭
  • 体育祭
  • 卒業写真

実り多き充実したデイケアでのアルバイト

橋村内科クリニック デイケア

日中は9:00~16:00までデイケアでリハビリ、夜間は18:00から柔整の学校へと大変な毎日でしたが、何とか3年間頑張り通すことができました。

利用者様とは蜜で楽しい関係を築けたこと、30人を超えてもこなす事が出来たことなど貴重な経験を積むことができ、何より時給が高かったため授業料+開業資金を稼げたことはラッキーでした。

2008年に『ヒロ理学整骨院』を開業

ヒロ理学整骨院 外観

当時、デイケアは日給のアルバイトでかなり時給が高かったので、開業資金を貯めることができました。それで、国家試験を合格した2008年に「ヒロ理学整骨院」を開業できたのでした。

最初は集客するという観念が全くないど素人でした(笑)看板さえあれば、患者さんは勝手にやってくると思い込んでいました。何せ整骨院での勤務経験が全くありませんでしたから(笑)知り合いの勤務先に数日見学させていただいただけですので。

そんなこんなで、当然開業初日に誰も来るはずもなく、慌てまくったのを昨日のように覚えています(笑)慌てて、知り合いに電話かけまくりました。何とか5人来ていただき、ホッとしたのを覚えています(笑)よく考えれば、何月何日にオープンということすら告知していませんでした(笑)今から考えても、冷や汗もんですね。

周囲の人の助けで、2~3ヶ月で軌道に乗り出し、1年後には院運営は安定していました。当時は、日の来院数や売上ばかりが気になり、だんだん流れ作業のようになっていました。病院でのあの熱い思いは、すっかり影を潜め、治療にプライドを持てなくなっていきました。

AKA-博田法以来2度目の衝撃

筋膜グリッピング法

それでも、2012年くらいから、いろんな手技の習得を何となく始めていました。日本全国いろんなセミナー・勉強会に行きましたが、そこで筋膜グリッピング法という筋膜リリーステクニックに出会い、AKA-博田法以来2度目の衝撃を受けました。

今まで変化を出せなかった症例でも、おもしろいように変化が出るのです。ここで自費診療を始めました。まだ、保険診療と併用でしたが。

DRT(ダブルハンドリコイルテクニック)との出会い

DRT 上原先生

そして、2016年に3度目の衝撃を受けることとなります。DRT(ダブルハンドリコイルテクニック)との出会いです。背骨をわずか5分間揺らすだけで、あらゆる不調が改善するのです。最初は半信半疑だったのですが、その効果の高さを目の当たりし、自信を深めていきました。

さらに対応できる領域が広がり、全く手も足も出ないということはなくなりました。特に、腰痛・股関節痛では絶対の自信があります。手術適応で手術日が決まってた患者さんでも、何人も手術せずに普通に生活できています。長年どこに行っても治らなかった方でも、どんどんよくなっています。これで、完全自費院に移行することを決意しました。

つまり、『堺肩こり・腰痛センター』の誕生です。

現在、さらなる高みを目指して日々精進しています。以上が、私が整体院を始めたきっかけです。

堺肩こり・腰痛センター